普通に生きたい女の子の話。

最近思ってることを書きます。

 

電車の中で、パートナーに、疲れた声で愚痴をこぼし、

次の駅で降りることを催促し、

降りてからも大きな疲れた声で話しかけている女性がいた。

 

遠くで姿は見えなかった。

 

でも、その日、私はいろんなことを考えた。

そして、自分がどれだけ普通に生きたいかを知った。

 

真っ先に考えたのは、

もし自分のパートナーが何かしらの理由で何かしらの身体的自由を奪われたら?

もし今、自分が事故に遭って、動けなくなったら?

愛する人と持った子どもに障害があったら?犯罪とか犯したら?

 

自分が予想しない不幸が起こってしまったら、

私はどう生きるんだろうか。

 

絶望して、他人のせいにして、嫉妬して生きる気がする。

 

それは、自分に”理想”があるからではなく

目に見えない”普通”または”普通ちょい上”の生活を渇望しているからだ。

 

生きたい姿・ありたい姿がないから、せめて普通に生きたい。

周りの景色と自分を相対化して、それより上じゃないとやっていけない自分がいる。

 

そんな自分も認めてあげるべきなのだろうか。