「なんだかんだ良い」はかけがえのない日常だったことに気付いた女の子の話
蛍池駅のホームで、涙が溢れ出して止まらなかった。
5分後、電車が来て、顔に残った涙をとりあえず拭いて電車に乗った。
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昨日は、バイト先の仲間の最後の出勤日だった。
4年前、千里中央駅の中で一番給料が高いから、という理由だけで選んだバイト先。
全然馴染めなくて、友達もできないだろうと思っていたバイト先。
そんな中、大学1年生から4人の同期が途中で辞めずに働き続けた。
仲良くなったのは、4年生の9月くらい。
初めて5人でご飯に行った後、次の月に遊びに行く計画をした。
そこから、ご飯、クリスマス会、卒業旅行。
たくさんの大事な行事をそのメンバーが埋め尽くしていった。
それだけじゃない。
休憩時間や遊びの合間にカードゲームで白熱した戦いを繰り広げていた。
私は、人間関係に、過度な期待と、過度な諦めがあった。
自分に合う人とだけ付き合うべきで、合わない人と無理して一緒にいるのは無駄だ、っていう価値観だ。
間違ってはいなかったけど、私の中で、その価値観は現実と乖離していたことに気付いた。
そもそも100%合う人なんていない。
そして、ある程度気が合わなくても、ずーっと一緒にいたら、影響されて似てきたり、
相手の会わない部分を許容できたりする。
そして、人は変わる。
そんな当たり前のことが、感覚的に理解できずに、「合う」「合わない」を判断した上に、「合う」人に対して、ぴったり合うことを求めていたりした。
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出勤して、最近どう?から始まって、バイト中に困難を一緒に乗り越え、
時には、バイトのことからそれ以外のことまで愚痴る。
休憩の時に一緒にスーパーに行って、一緒にご飯食べながら話す。
早く戻ってこい、とか言われる。
そんな何気ない、「なんだかんだ良いな」って思える日常は、
とってもかけがえのない日常なんだ、ということに、
この日常が無くなる今の瞬間まで気づかなかったのだ。
そして、気付いたその時、蛍池駅で号泣した。
家に帰ってからも、感情の整理が終わるまで泣き続けた。
泣き疲れて寝たときには、午前2時だった。
そして今日、アルコールの残る重い体でこの文章を書き、
涙で腫れた目で、この文章を読んでいる。